それから数時間、教室でピアノを弾きながら練習を続けた。
段々と、答えが見えてくる。そんな気がした。

課題曲を綺麗に、形にはまったような感じで歌うことはこの課題で要求されていない。
いかに、パートナーの歌声を活かし、歌を自分のものにするかが大事なのである。
そんなことは最初からちゃんとお互い分かっていた。けれど、実際にそれをやろうとすると
すごく難しいことなんだ、っていうことを今回改めて知った。

プロになるって本当に難しいことなんだ。


「少し、休憩しようか」


音也くんはそう言って楽譜を閉じた。
私も椅子から立ち上がって深呼吸をした。

5月とはいえ、少し汗ばむ。
私は腕で汗を拭って窓の外を見た。


綺麗な空だ、

今日も屋上で空、見たら綺麗なんだろうなあ。



そんなことをぼんやりと考えていたら音也くんが私の肩を軽く叩いた。



「後で、屋上行こうか」


音也くんはすごいと思う。
私の思っていることをすぐに言葉に出してくれる。

私ははっとして音也くんを見上げて大きく頷いた。彼はそれを見てぷっと吹き出す。




























「で、ここの解釈なんだけど・・・」

「うん、」

休憩の後、私たちは楽用語のおさらいと曲のヒントを探すために図書館に来ていた。
誰もいない図書館はいつもよりも広々としていて、いつも以上に閑散としている。
私たちは一角の席に腰掛けて音楽用語大辞典と楽譜を交互に見ていた。


「やっぱり、だんだんと強くなってくるっていう感じで歌うべきだと思うの」

「そうかな?あー、でも歌詞もそんな感じだよね、希望に向かって真っ直ぐ一直線!みたいな詞だし」

「そうそう、だから次歌うときに意識してみてくれる?」

「わかった、じゃあ忘れないようにメモしておくね」


音也くんはそういってペンを走らせた。
私は再び楽譜を見る。いろいろなことを書き込んでいるせいか、楽譜が全体的に黒い。
角もよれてきていて、しっかりとファイルに入れて保管しないとやぶれてしまいそうだ。

でも、これが努力の証。

私は再び音也くんを見た。


一ノ瀬くんに会ったあとから音也くんはやる気に満ち溢れているようだった。
前まで用語辞典を開くのはあまり好きじゃなかった彼が、今では率先して頁をめくって調べてくれる。
やっぱり、ライバルの存在って大事。

真斗くんと神宮寺さん、それから音也くんと一ノ瀬くん。

お互いを刺激しあってどんどん自分を輝かせている。
とても素敵なことだ。

私はちゃんと音也くんをパートナーとして支えてあげなくてはならない。
今のままでは音也くんに支えられてばっかりで、私なんて頼りない。


・・・友千香ちゃんにも私は支えられて、
一体私は誰を支えているのだろう。

急に不安になってきた。
ここで、音也くんとずっとパートナーを組んでいいものなのか、
足を引っ張っていたりはしないのだろうか・・・。


私は楽譜をぎゅっと握り締めた。
くしゃっと楽譜が悲鳴を上げるように音を立てた。

その様子に気づいたのか、音也くんは顔を上げて私の名前を呼んだ。


?」


私ははっとして楽譜を机に置いた。
そして首を横に振って笑顔を作って言う。


「なんでもないよ!うん、」


「そ?あのさ、俺なりに結構いい線まできたから教室戻って歌いたいんだけど・・・」


「本当に?じゃあ、一旦戻ろうか」



私はそう言って立ち上がり、荷物をまとめ音楽大辞典を持った。腕にずしん、と重みが伝わる。
と、後ろから音也くんが私の手の中にある大辞典を取り上げた。


「だーめ。こんな重いもの、女の子に持たせるわけにはいかないっしょ」


そう言って彼はそのままそれを本棚へと戻しに行ってしまった。



・・・また、助けられちゃった。




























教室に戻ると、空が少しずつオレンジ色になっているのを感じた。
もうそんなに時間が経ったのか。
私は荷物を置き、楽譜を持ってピアノのそばへと行った。


「音也くん、準備が出来たら教えてね」


私がそう言うと音也くんはストレッチをし始めた。
そうだよね、身体を解さないと緊張してしまって声が伸びなくなる。
私は音也くんのストレッチをぼんやりとみつめながら先ほどの不安を無理やり消そうとした。


今は、演奏に集中しないと。


、いいよ」

「うん、じゃあ合図出すからそれにあわせてね」


























一通り歌い終わると音也くんは息をはいた。
そして笑顔でこちらを見てくる。私は拍手をした。


「すごくよかった!」


本当に良かった。
先ほどまでとは大違いで気持ちの込め方も、歌い方も、声の伸び方も
今まで以上によくできていた。すごい、こんな短時間で。


「へへ、ちょっと頑張ってみました」


「このままでも全然問題ないくらい、すごく良かったよ」


私がそう言うと満足そうに音也くんは笑った。
けれど、すぐに真剣な顔に戻って私のところへ楽譜を持ってやってきた。


「あ、ここなんだけど・・・俺としては音程合ってるつもりではいるんだけど、少し違和感があるから・・・」

「うん、」

「ちょっとここ、歌ってみてくれない?」


私は思わず楽譜を落としてしまった。


どうしよう。


今回は避けられない。


私は楽譜をしっかりと握り締めて大きく息を吸った。

音也くんがじっと私を見つめている。





歌いだすと喉は痛まなかった。
大丈夫、大丈夫


おそるおそる、でも音程は正確さを意識しながら私は歌った。


最後の小節まであと少し。


―大丈夫、













そう思った直後、私は喉に痛みを感じた。
耐えられなくて思わずその場で座り込んだ。



「つっ・・・」

!?平気・・・?」


私の背中をさする音也くん。
私は目に涙が浮かんでくるのが分かった。


―また、支えられている。


私は喉を押さえ必死に痛みを堪えようとした。












「何してるの?」


と、聞き覚えのある声が教室の外から聞こえた。
顔を上げると月宮先生が教室のドアを開けて入ってきた。

月宮先生は私を見ると駆け寄ってきて私の肩をしっかりと支えた。


ちゃんっ、大丈夫?苦しいの?」


「だ、大丈夫・・・です」


・・・」


音也くんは背中を摩るのをやめて、呆然と立ち尽くしていた。


そうだよね、こんなところ見ちゃったら誰だってそうなるよね・・・。




「オトくん、今日練習しててちゃんの様子が変だったとか無かった?」

「いや・・・、無かった。いつも通りのだった」

「そう・・・。とりあえず、寮で休んでちょうだい」


そう言って私の肩を抱いて月宮先生は歩き出した。
と、後ろから音也くんの声が聞こえた。


「リンちゃん、俺が送ります」

「そう、じゃあお願いしていいかしら」


そう言って音也くんが私の肩を抱いてくれた。
そしてそれから音也くんは一言も喋らないまま、私を部屋まで送ってくれた。





























「もしもし、龍也?」

「どうした?」

ちゃん、喉、きてるみたい」

「何?」

「今日、教室に行ったらオトくんと練習してるところだったみたいで、すごく苦しそうにしてて・・・。確か、ちゃんって過去に失声症にかかったことがあったってシャイニーから聞いたことがあったんだけど」

「でも、あの病気はストレスとかショックからなるものであって、別に痛みを伴うものではないだろ」

「そうだけど・・・、でも彼女、周りに自分のことあまり話してないみたいでオトくんも何も知らない感じだったわ」

「そうか・・・。でも、彼女は作曲家コースだ、歌わなくても作曲は出来る」

「でもっ・・・、また以前みたいに声を失ってほしくないわ」

「とりあえず、経過観察だな。時間が経てば何か分かってくることもあるだろう」

「・・・そうね」








失声症と喉の痛みは別。


でもきっと彼女をそんな風に苦しめている理由はただひとつだけなのだろう。


このまま放っておいて、治るものじゃない。


一体どうすれば・・・。





















、本当に大丈夫?」

「うん・・・」


私の部屋の前まで来て音也くんは私を心配そうに見つめた。
私は部屋の鍵を取り出して開錠しドアを開ける。
そして音也くんを真っ直ぐに見つめた。

痛みはもう和らぎ、落ち着いた。
また迷惑かけてしまった、支えられてばっかり、もう、本当に格好悪い。


「・・・、俺・・・」


と、音也くんが何かを言いかけた。
けれど、その続きは言ってくれなくてただ彼は私の頭をくしゃっと撫でるだけだった。


「無理、すんなよ」


それだけ言うと音也くんは「じゃ」と短く言って帰っていった。
私はその背中をじっと見つめた。














ごめんね、

まだ、話せないの。




Alla caccia




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120201